あきらめない心

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人はどうしても失ったものの大きさに目を奪われて、まだ手元にどれだけ多くの可能性が残っているのかを忘れてしまう。

大胡田 誠(おおごた まこと)
著書:全盲の僕が弁護士になった理由

あげられるもの、あげられないもの

僕は、全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士だ。1977年に静岡県で生まれた僕は、先天性の緑内障だった。徐々に視力が薄れていき、12歳のときに両目の視力を完全に失った。

僕が今まで頑張ってこれたのは、同じ視覚障がいを持ちながらも、どんどん社会に出ていっていろいろな分野で活躍している先達がたくさんいたこと、そして伸び伸びと育ててくれた両親や有形無形のサポートをしてくれた数えきれないほどの人たちのおかげだと思う。

僕には3歳下の弟がいる。今は高校で教師をしているが、弟も僕と同じ先天性緑内障で、11歳で失明した。2人の息子が揃って視覚障がいを持ち、まだ若かった両親は言い尽くせぬほどの苦労をしたと思う。それでも不自由がある分、自然と家族が力を合わせていたし、家の中にはいつも笑いがあった。

そうして迷いながらも、そんな素振りはあまり見せなかったが、一生懸命に生きている両親の背中を見て、生きていく基本姿勢を教えてもらった気がする。

妻は、未熟児網膜症のために生まれたときから目が見えない。それでも僕が妻とともに家庭を作りたいとおもったのは、きっと両親の影響が大きい。僕たちが目が見えないために、子どもに教えてあげられないことがこの先多々あると思う。でも、多少無責任な言い方かもしれないが、それは周りにいる他の大人に教えてもらえばいい、そのくらいに僕は思っている。できないことを気に病むより、多少鷹揚に構えて、僕たちがなるべく多くの人と関わっていった方が、娘にはより多くのものを見せてあげられるはずだ。

子どもにとって確かに特殊な家庭環境かもしれない。将来、苦労をかけるだろうし、ほかの家庭にはない葛藤も経験するかもしれない。ただ、僕たち夫婦だからこそ見せてやれるものもあると信じている。それは、人生に立ちはだかる困難から逃げずに、それとうまく付き合って生きていく姿勢だ。僕の両親がそうだったように、結局のところ親は、大事なことほど子どもには自分の背中を見せることでしか教えることができない。

将来、人生を左右するような試練に直面するときが来るだろう。でもそこで諦めずに、勇気をもって前に進んでいくと、まったく別の平地が目の前に開けてくる。「だから無理だ」と逃げることよりも「じゃあどうるすか」と考えるほうが、人生は面白くなる。そのことを僕たちは、これまでの、そしてこれからの生き方を通じて見せてあげたい。

見えない壁を打ち破る

あなたの周りにには一体どれくらいの障がい者がいるだろうか。

日本には身体障がい者が約366万人、知的障がい者が約55万人、精神障がい者が323万人暮らしている。中には1人で複数の障がいを持つ人もいるだろうが、単純に合計すると744万人になる。これは日本の総人口の約6%で、およそ17人に1人が障がい者ということになる。

もっともこれは、障がい者として公的機関に認定さえている人の数だから、例えば発達障がいなど本人が障がいを持っていることを自覚しづらいようなケース、あるいは障がい者として認定されるほどではないが生活に不便を感じているというような人を合わせると、その数は格段に多くなる。

 障がいを持っている人は決して特別な存在ではないし、今は健常者だとしても、思わぬ怪我や病気でいつ、障がいを負うことになるか分からない。だから、障がい者が生きやすい社会というのは、健常者が安心してくらせる社会でもあるのだ。

日本ではまだ、障がい者が地域社会の中で尊厳を持って自由に生活できるとは言い難い。まず、町の中には多くの物理的なバリアがある。

日本盲人会連合が実施したアンケートでは、回答した252人の視覚障がい者のうち、実に4割が駅のホームから転落した経験があることが分かった。大勢の人が行き交うホームを目をつぶって歩くことを想像してみてほしい。僕たちはそんな恐怖を毎日何度も味わっている。

健常者にとっては利便性を高める取り組みが、障がい者にとっては思わぬ壁になることもある。例えばタッチパネル。ビジュアルが美しく、多くの情報を表示できるメリットがある反面、目が見えないとどこにどのボタンがあるかが分からない。銀行やコンビニのATMも難儀することが多い。目がみえないとどこにボタンがあるのか分からない。ATMを目の前にして自分のお金なのに下ろすことができず、惨めな思いをすることがある。

物理的なバリアだけでなく、障がい者に対する心のバリアも大きな問題だ。

障がい者が「意地悪をしてやろう」というような悪意のある差別を受けることはめったにない。それよりも、「面倒なことになりそうだから関わらないでおこう」と遠巻きにしたり、障がいの実態を正確に把握せずに制限を設けたりといった、「悪意のない差別」が壁となり、障がい者の社会進出を難しくしてしまうのだ。

日本の就労可能な年齢の障がい者のうち、身体障がい者知的障害者のおよそ半数、精神障がい者のおよそ2割の人が何らかの仕事に就いている。

障害者雇用促進法」という法律では、従業員50人以上の企業は常時雇用する労働者のうち、障がい者が2%以上を占めるようにしなければならないと定めている。しかし、これを達成しているのは、対象となる企業の42%と半数を下回っている。

障がい者を雇用するためには、受け入れる会社の側がある程度の体制作りをする必要がある。逆風が吹き荒れている経営環境で、障がい者を雇い入れることに心理的な抵抗を感じるのはやむを得ない面もある。

しかし、障がい者が生きやすい場所は、健常者にとっても安心できる環境であるということを知ってほしい。トップが障がい者にも活躍の場を与えようと努力すると、その姿勢を見てほかの社員も信頼を寄せるようになる。ハンディに負けずに頑張る新人の姿に刺激も受ける。そうして社内が一つにまとまり、自然と助け合う風土が根付く。会社の規模にかかわらず、実際にそんな前向きな循環を生み出している企業が少なからずある。

障がい者と言ってもその態様はあまりにも多様で、一概には語れない。しかし、例えば視覚障がいであれば、ITの進化によって昔とは比べものにならないくらいに、情報へのアクセスや処理が容易になった。それだけできる仕事の範囲も広がったということだ。

障害者の社会参加を考えるとき、野球のメジャーリーグを思い浮かべる。一昔前までは、メジャーリーグでは日本人選手は太刀打ちできないと思われていた。しかし、野茂英雄投手がメジャーに挑戦して活躍したことによって、次々と日本人が進出するようになり、今ではチームの主軸にもなっている。本当は日本の選手の実力は、野茂投手が行くかなり前からその水準に達していたはずだ。でも、ほとんどの人がそうは思わなかったから、実現しなかった。

だから、障がい者の側も勇気を出して一歩を踏み出すことが大切だ。人はどうしても失ったものの大きさに目を奪われて、まだ手元にどれだけ多くの可能性が残っているのかを忘れてしまう。でも、その可能性を開花させることができれば、その人自身が一つの前例になり、障がい者に対する社会の意識が変わっていく。

一言で世界が色づく

障がい者が生きやすい世の中を作るというのは、実はそこまで大仰なことではない。僕はふらふらと外国を旅行するのが好きだ。景色は見えなくても、空気がガラっと変わるから、異国情緒を十分に楽しむことができる。全盲の友達と2人だけで10日ほどドイツを個人旅行した。

拙い英語で「どこかにいいデリカテッセンはありませんか」と聞いたりして、町を散策し(彷徨っ)た。

驚いたのは、ドイツの人が障がい者への接し方に実に慣れていることだった。道に迷っていると、誰とはなしに自然と声をかけてくれる。ホテルで部屋の浴室にあるシャンプーとリンスとボディーソープの区別がつかなくて、フロントに尋ねに行ったら、すかさずシャンプーのボトルには輪ゴムを、リンスにはクリップをつけてくれた。こんなささやかな気遣いがあるだけで、視覚障がい者にとっては旅のハードルがぐっと下がる。

日常の生活でもそんなことが多々ある。

毎日往復している自宅から駅までのわずかな道のりですらも、脇にどんな店があるのかごく断片的にしか知らない。先日、友人に教えられて、有名なスペイン料理の名店の前を一年半も素通りしていたことに気付いてショックを受けた。

お気に入りの店をちょっと教えてくれる。そんな何気ない一言のおかげで、僕にとって街の景色が大きく変わる。今日の空模様や道端に咲く花の色を教えてくれるだけで、モノクロだった僕の世界には色がつくのだ。

もし、街中で障がいを持つ人を見かけたら、一瞬、その人のことを思ってみてほしい。そんな一つひとつの瞬間が社会を変えていく一歩になり、お互いの心を豊かにしてくれるきっかけにもなるのだと思う。

*上記 本の一部を超訳したものです。