教養とはなにか?

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 「教養」というのは、「生」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、操作したりする「仕方」のことである。もっと正確に言えば「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。

引用:街場の現代思想 (一章)
著者:内田 樹

教養について

最近の若いもんは文学作品を読まない、というようなことがメディアでは「常識」とされているが、こうゆう「メディアが自明視する常識」はあまり当てにしてはならない。最近の若い人々は意外なことに、本を読んでいる。それもガリガリと読み込んでいる。

しかし、最近の若い人たちの読み方は「むかしの文学少女」とはかなり違う。近年の若い人の際だった特徴は「特定ジャンル」への関心の集中である。

むかしの文学少女は、文学についての知識は「基本的教養」とされており、「知的な高校生と思われるための必読書リスト」についての暗黙の社会的合意が存在していた。「みんなが読んでいる本だから、私も読まねば」という「ちょっとずつ一通り読む」という仕方で、そこは浅いが一望俯瞰的な読書をした。

問題は「最近の人は文学を読まない」ことではないし、「音楽を聴かない」ことでも、「映画を観ない」ことでもない。みんなかなり集中的に読んでいるし、聴いているし、観ている。ただし、そこで得られた情報や知見を「共有する次元」がないのである。

文学であれ、映画であれ、音楽であれ、マンガであれ、興味のあるジャンルについては異常に詳しく、隣接するジャンルについてはしばしば何もしらない。

私たちは、このような傾向に対しておおざっぱに「教養がない」という批判的な形容をする。けれども、その言い方では説明が足りないように思う。

若ものたちにかけているのは「知識」や「情報」ではない。繰り返しいう言うように、特定の主題やジャンルについては、現に常人が及びもつかないトリヴィアルな知識を若ものは持っている。

若ものたちに欠けているのは「知識」ではない(それはたっぷりある)。欠けているのは、「自分の持っている知識」は「どのような知識であり、どのような知識ではないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば「自分の知識についての知識」なのである。

「教養」というのは、「生」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したりする「仕方」のことである。

知識についての知識

比喩を使って言えば「教養」とは、古今東西すべての知識を網羅した巨大図書館があった場合、自分の持っている知識や情報は、その巨大図書館の、どの棟の、どの階の、どんな分類項目にあたる知識や情報なのかを想像することのできる能力のことであり、それを正確に把握できる人間は、その図書館の全蔵書を使いこなす潜在的な能力をもっているということができる。

図書館の利用のノウハウとは、ただ一つ「私がまだ読んでいない本について、それがどこにあるのか、何の役に立つのかを知っている」ということである。「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことである。

知っているものと体験したもの

熟視と感覚に基づいて「経験」を語る人間が、自己訓練を通じて獲得された「知識」を語る人間よりもつねに正しい判断をするということはない。しかし、「知識」を語る人間が「経験」をかたる人間に対してつねにある種の「気後れ」を覚えることは事実である。

文化資本について

文化資本」という概念を使って社会理論を構築したのは、フランスの社会学ピエール・ブルデューである。「文化資本」には、「自然に身についた文化資本」と「努力して身につけた文化資本」の二種類がある。

自然に身につけた文化資本と努力して身につけた文化資本の差は、前者は「経験」をたいせつにし、後者は「知識」を「経験」に優先させる。

ブルデューの卓越した喩えを借りて言えば、ある人は自分の観た映画に出てきた俳優の役名を記憶し、ある人は自分の観たことのない映画の監督の名前を記憶する。後者は「作品そのものを熟視することをおろそかにしても作品について語ることを優先させ、感覚を犠牲にしても訓練を重んじる」。

ワインの味について語るときにも、同じような差がでる。ある人は、どのワインについても、それを前に飲んだときの料理の味わいや。会食者の話題や、食器の触れ合う音や、演奏されていた音楽や、着ていた服の肌ざわりの記憶をありありと思い出すことができる。ある人は「ワイン本」を読んで「どこのシャトーの何年ものは逸品」というような「知識」を網羅的に語ることができる。ここに露呈するのはワインとの「親しみ深さ」の違いである。

繰り返し言うが、親しの深さや享受のあり方の違いは、判定の当否にはかかわらない。熟視と感覚に基づいて「経験」を語る人間が、自己訓練を通じて獲得された「知識」を語る人間よりもつねに正しい判断をするということはない。しかし、「知識」を語る人間が「経験」を語る人間に対してつねにある種の「気後れ」を覚えることは事実である。

階層社会化する日本

「階層」 と「階級」は似ているが微妙に違う。「階級」というのはマルクス主義の概念であり、主体側の積極的参与がない限り「階級」というものは存在しない。それに対して「階層」とはいうのは、本人がどう思おうと「もう、すでに、そこに」存在する。

フランスは「階級」社会ではないが、「階層」社会である。そして、階層と階層の間には乗り越えることのできない「壁」がある。その「壁」は社会的地位や資産や権力や情報や学歴など、多様な要素によって構成されているが、ある階層に属する人間と別の階層に属する人間を決定的に隔てているのは「文化資本」の格差でる。

パリの「郊外」は、「芸術の都」からわずか十数キロしか離れていないにもかかわらず、文化的には巨大な「壁」によって隔絶されている。「郊外」には文化的なものがほとんど何もない。書店も映画館も図書館も美術館もコンサートホールも…住民たちの身の回りには文化的なリソースを提供する場所がほとんど何もない。だから、「郊外」に生まれた子どもは、たとえどれほど潜在的にすぐれた知性や感受性に恵まれていても、古典に親しんだり、すぐれた芸術作品に触れたりするチャンスそのものを構造的に奪われているのである。

実存主義、構造人類学、系譜学、社会史、心性史、イデオロギー批判、記号学、ポストモダニスム、デコンストラクション精神分析、他者論、文化資本論…など今日英米の大学において教科書的に教えられているいる人文・社会科学系の理説は、そのほとんどすべてががフランス産である。 

 しかし、その一方でフランスは先進国の中では例外的に非識字率が高い。数年前の「フィガロ」の記事によると、フランスの小学校六年生の35%は「速読では文章の意味が取れない」。つまり、教科書を音読することはできるけれど、「いま読んだところになんて書いてあったの?」という質問には答えられない。

 一方では全世界に文化的生産物を贈ることのできる社会階層が存在し、他方に文字を読めない社会階層が存在する。この二極分解が階層社会の特徴である。

日本が「フランスみたないな階層社会になること」に私は同意することはできない。

日本は明治以来の150年間、それほど階層的な社会ではなかった。むしろ、世界にも例外的な均質的社会を実現した。だが、「均質的すぎる」社会は「階層的すぎる」社会と同じように、どこかに制度疲労がたまる。私たちの社会はいまゆっくりとフランス的な階層社会に向きつつあるのは、おそらくある種に歴史的な「補正」の作用が働いているせいだろう。

日本が階層社会化することで、均質社会に固有のいくつかの問題点は解決されるかもしれない。例えば「悪しき平等主義」によって突出した人間を「出た釘は打つ」という仕方で抑えつけるような教育のやり方は改められ、年功序列・終身雇用によって制度疲労を起こしている組織は活性化する可能性がある。

しかし、それでもなお私は日本社会を文化資本の差によって階層化することには反対である。文化資本の差によって階層化される社会というのは、流動性の低い社会だからである。そして流動性の低い社会は、私にはあまり住み良いようには思えないのである。

でも、文化資本主義社会にもひとつだけ救いがある。それは、この社会における「社会的弱者」は自分が「社会的弱者」であるのは主に「お金がない」せいであって、「教養がない」せいでそうなっていることには気がつかないでいられるからである(教養がないから)

*上記 本の一部を超訳したものです。