貧乏とは何か

IMASENZE

貧困は経済問題であり、貧乏は心理問題である。日本で社会問題になっているのは、貧困ではなく貧乏である。戦後日本は「貧困」から脱して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えた。それは豊かさに差が生じたからである。貧富に限らず誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。

貧乏は、「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。貧乏人は理想的な消費者であるが、「私は貧乏だと思って苦しむこと」は人間をあまり幸福にはしない。

引用:昭和のエースト
著者:内田 樹

内田樹(うちだたつる)1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学院博士課程中退。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授
解題 文章の初出(『熱風』第六号 スタジオジブリ2007年)「貧乏で何か問題でも?」

貧乏について

最初に用語の定義を済ましておこう。
貧困は経済問題ではあるが、貧乏は心理問題である。貧乏は「意味の問題」と言うこともできるし、「関係の問題」と言うこともできる。とりあえず数字で扱える問題とは次元が違う。

日本ではおおざっぱに世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別される。だが年収2万ドル弱というのは、世界的に言うと、かなり「リッチ」な水準である。日給240円のニカラグラの小作農は年収87,600円である。「絶望的な貧困」と申し上げてよろしい。 この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子どもはその境涯から脱出することがほとんど不可能だからである。

世帯年収200万円はその意味では「絶対的な貧困」とは言えない。その世帯の支出費目に教育費が含まれており、収入が主に企業内労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的資質や芸術的才能を開発したり、業務上の能力を評価されて昇進するチャンスが残されているということを意味するからである。これは小作農的な「出口のない貧困」とは別種のものである。

日本で社会問題になっているのは貧困ではなく、貧乏である。

屋根のある家に住み、定職を持ち、教育機会や授産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態は「貧困」とは言われない。相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。

貧乏は「人間は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と宣言した『人権宣言』によってはじめて公式登録された。生まれながらに平等であるはずであるにもかかわらず、権力や財貨や情報や文化資本の所有において現に個人差がある。それを「苦しみ」として感じるのが「貧乏」である。

貧乏とは、私が端的に何かを所有していないという事実によってではなく、他人が所有しているもの(それは私にも等しく所有する権利があるはずのものである)を私が所有していないという比較を迂回してはじめて感知される欠如である。

第二次世界大戦が終わったあとの敗戦後の日本はたいへんに貧しかったけれども、人々の顔は総じて明るかった。それは日本人全員が同程度に貧しかったからである。「共和的な貧しさ」のうちに人々は安らいでいた。そのあと日本は「貧困」から脱して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えた。豊かさに差が生じたからである。

「もはや戦後ではない」という宣言とともに日本が中進国からテイクオフしたあとの日本社会で、貧困はもはや深刻な社会問題ではなくなった。もちろん、貧困な人々は依然として存在したし、今も存在するが、貧困問題は平たく言えば「税金をどう使うか」という行政上のタスクにすぎない。クレバーでフェアな官僚さえいれば十分にマネージ可能な問題である。(もし貧困問題がいまだ十分にマネージされていないとすれば、それは「クレバーでフェアな官僚が存在しない」ということを意味しており私たちが論じているのとは別件の内政問題である)

貧乏は日を追って重大な社会問題となっている。

貧乏はおのれの相対的劣位を感知して、自分は「貧乏だ」と規定する自己認識が生み出す記号的なものだからである。政府がどれほど税金を投じても「貧乏人」を富裕にすることはできない。貧乏は金の不足が生み出すのではない。貧乏は「貧乏コンシャスネス」が生み出すのである。誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。

貧乏人は理想的な消費者である

たいへん困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。当然ながら、どれほどものを買っても、「他人が有しているもの」を買い尽くすことはできない。市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄える。外形的にはきわめて富裕でありながら、なお自分を貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者である。

「私は貧乏だと思って苦しむこと」は人間をあまり幸福にはしない。できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う。だが、「私はすでに十分に豊かである」と考える人はたいへん少ない。もちろん、それには理由がある。

もし人々が方丈の草庵を結び、庭に生えたトマトと胡瓜を齧り、琴を弾じ 、詩を吟じ、友と数合の酒を酌み交わして清談することに深い喜びを見出すようになれば、日本経済はたちまち火の消えたようにしぼみ、遠からず日本は中進国レベルに格下げされてしまうからである。

他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えないが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。自分はいったいどのようなものを求めているのか具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても「貧乏」に苦しむことはない。

日本社会はそのような能力の開発のためにリソースを投じてこなかった。そのようなものにリソースを投じたら経済成長が鈍化することがわかりきっていることには行政もメディアも真剣にはかかわらない。その選択が政策的に間違っていたのかどうか、私には判断できない。たぶん、そうするしかなかったのだろう。

貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁昌するであろうと私は思っている。

まぁ、それも仕方がないか、というのが私の考えである。私たちの社会を住み易くするための原理として、とりあえず近代市民社会市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまい。現に、貧乏なんだし。
昭和のエースト 第1章 引用要約)