いちばん大切なもの

IMASENZ

人間はただ命が助かって寿命が延びただけでは、生きているとは言えません。生きがいがなければ生きる気力が湧いてこない。限られた命、限られた余生をいかに満足し充実した時間として送っていただくかを検討することが、大きな役目である。どんなに病み、老いても、人間は誇りなしには生けていけない動物だからです。

手塚治虫(OSAMU TEZUKA)
ガラスの地球を救え:知恵の森文庫 光文社

ブラック・ジャックのジレンマ

ぼくは医師免許を持っていますが、何しろカルテに患者の似顔絵をつい描いてしまうような医者でした。それでも、もしぼくが医者になっていたらこんな医者になってみたかった、という夢だけはあって、その夢をマンガの作品に書いたりします。

今思えば、ぼくのマンガにはやたらと医者が登場します。その中でも一番読者の共感をよんだのは、ブラック・ジャックという主人公です。

ブラック・ジャックは、天才的な外科手術の腕を持っている男ですが無免許医で医師会や刑事からつねににらまれています。しかし、彼の技術を信頼して、世界中から大金を払っても治療を受けに彼のところへ患者が来るのです。よほどの問題がないかぎりブラック・ジャックは患者を完璧に治してしまいます。

どんな患者でも治してしまいますから、患者はもちろん寿命が延びます。彼に限らず、先端医療機関はどんどん患者を救って生命を延ばします。すると、結果的に、世の中は死ぬ人間が少なくなり、高齢者が増え、高齢化社会に傾いていくのではないか? あるいは、結果的にライフサイクルが狂い、人口過密をきたすのではないか?

ブラック・ジャックは、一人の患者を治すごとに、いつもそんな悩みに苦しむのです。医者は果たして人間に延命策を施すことが使命なのか、老衰した高齢患者の生命を救うことによって、その患者の余生を果たして幸福にできるだろうか。ブラック・ジャックは自問自答し、はげしいジレンマに陥ります。

人間はただ命が助かって寿命が延びただけでは、生きているとは言えません。若い人はもちろんのこと、老人にもいわば生きがいがなければ生きる気力が湧いてこない。せっかく医療の進歩によって生き延びることができたとしても、かえって辛い思いや苦しい思いをさせることになりかねません。

日本のみならず、老人に対する社会の目は、かなり冷たいものがあるようです。もうお役御免のやっかい者のように考えている青年や壮年層の見方は、とんでもない思い上がりであり、傲慢です。自分の若さでこの世を謳歌することや、仕事に没頭することで、すっかり忘れていることがありそうです。

それは、いずれ、遠くない将来、自分自身も老人になるということです。その時はその時さ、という答えが返ってきそうですが、もっと自分の一生を大事にする意味からも、何十年か働き続けて、老いてしまった人たちが、どんな思いで暮らしているのか、一度じっくり想像していたいと思います。

老いるということは、病気にかかりやすくなるし、身体に障害をもつようになるということでもあります。若いころには自在に動いた手や足が、自分の思いのままに動かないつらさや、情けなさ。動きがスムーズでないために、ついウロウロしてしまう自分を、老人は心中、恥ずかしいと思っているにちがいないのです。しかし、そんな老人に周囲の目は必ずしも温かいとは言えません。

身体が不自由になり、年老いる。それはほかでもない、自分自身の姿です。他人のためではありません、自分の将来のためにも、もっと老人や不自由な体の人々が生きやすい社会が考えられるはずです。

ブラック・ジャック』の作品中に。ある老人の話しを描きました。高層ビル建設のために、一本のケヤキの木が伐り倒されることになり、その木とともに育ってきた、ある老人がなんとか建設をくいとめようとしますが果たせず、明日伐り倒されるという最後の夜、ケヤキと一緒に酒盛りした後、その枝で首つり自殺をはかります。

それをブラック・ジャックが手術して助けるのですが、さて困った問題を抱えました。老人は生きのびましたが、もはや老人には生きがいがないのです。これで人助けをしたことになるのかどうか。

物語としては、結局、その老人は可愛がっていたケヤキは種を飛ばしてつくった子どもの木を手術中の幻に見て、その木を発見し、生きていく力を取り戻すのですが、現実には老人が生きがいを見出すのは、なかなか今のような社会では、むずかしいことのように思われてなりません。

ブラック・ジャックは医療とは何か、人間の幸福とは何かという問いを繰り返すのです。

IMASENZ

いちばん大切なものは何か

現在、三つの成人病のうち、癌の治療は、癌の本質が解明されるとともにしだいに展望があかるくなりつつあります。あと心臓疾患と脳梗塞のうち、後者は予防手段がとれるし、心臓疾患も臓器移植や人工臓器の進歩によってこれも克服されようとしています。

現在のところ人工心肺はまだ体の中にうめこむほどコンパクトにはなっていませんが、近い将来、もっと小型化して体内に納まるようになるでしょう。肝臓や膵臓などの臓器や、血管、骨、皮膚なども人工的に作り、代用できる時代が来つつあります。

しかし、どうしても人工的につくれない器官がひとつあります。それは脳神経です。脳細胞は、どんなに精密なコンピュータをもってしても到底及ばないほどの精緻をきわめた構造をしています。そして、もし将来代用品ができたとしても、それはあくまでも作りものであって、本物の脳細胞と取り替えることはできません。

もし取り替えたとしたら、その人は人格は消えてしまって、ロボットになってしまうわけです。つまり脳細胞以外はどんなに人工的なものと取り替えようと、人間であることに変わりありませんが、脳が人工頭脳に変わるということは、人間でなくなることです。

このように脳というものは代替のまったくきかない組織であり、脳が死ぬということは、確実にその人は死ぬということです。

死というものは一度に来るわけではなくて、心臓が死ぬ、組織が死ぬ、細胞が死ぬなどいろんな段階があります。たとえば、心臓は動いているけど脳細胞は死んでいるという場合があります。あるいは、脳も心臓も死んでしまっているが、ある組織は生きているという場合もあります。

では、どの段階で死を認めるのか、ということになりますと、現在の医学では、脳の組織が死ぬ時点だろうということになっています。

そこで人間が健康で生きながらえていった場合、何歳ぐらいまで生きられるのか、言い換えれば何歳ぐらいで脳死が起こるのかといいますと、現在あるデータでは大体100歳〜120歳ぐらいが限界だろうとされています。どんなに医療技術が進歩発展しても人間の寿命は120歳ぐらいまでだ、ということです。そうなると、その120歳までの人生をいかに最大限に全うするか、ということが人生の課題になってきます。

そうゆうわけで、いままでひたすら延命工作に励んで来た医者の使命も、そろそろ認識を変えなければならなくなりました。ことに医療の発展に伴って高齢者がふえ、老人医療が重要な位置を占めてくると、そういった人々に対して、限られた余生をいかに満足し充実した時間として送っていただくかを検討することが、医者の大きな役目であり、患者に生活のサゼスション(示唆)をしてあげることが、医者の役目となってきます。

医者が権威にあぐらをかいてふんぞり返っていたのでは、そのような信頼関係のうえでの役目をおうことは不可能です。それにどのように医学が進歩しようと、最終的には治すのは本人なのであって、医療は、それに協力しているにすぎません。

ぼくたち人間は誰もが理想的に生きているわけではありません。ずいぶん多くの無駄な、マイナスな時間を費やしています。「ああ..もったいない時間をつぶしてしまった」と悔やむことが、ぼくたちの暮らしの中でどんなに多いことか。

また人間は多くの煩悩を持っていて、迷ったり悩み苦しんだりします。こういったものも、ずっとあとになって気がついて、反省しても時間的に手おくれのことが非常に多いのです。

けれども、まだまだやり直しがきく若いころには、若さにまかせたエネルギーの放出に忙しく、とても時間の無駄などに気づく機会はほとんどありません。

なにも若いころから、老いや死のことを考えて、おどおどと時間を節約して生きろと言っているわけではありません。そうではなくて、ほんとうに若い力をフル回転させて、充実した一生を生きるとはどうゆうことか、人生のほんとうの喜びとは何かについて、深く考える心を子どもたちに育みたいし、若者に考えてもらいたいのです。

医療の世界も、技術の進歩による延命ばかりでいいわけはありませんが、問題はすぐに解決できません。ただ、死に臨んで、当人も家族も周りの人々も、人間として尊厳は全うしたい、全うさせてやりたいと願わずにはいられないと思います。

あらゆる人間の住みやすい生きやすい社会とは、すべての生物の生きやすい世界へとつながっているはずです。いちばん大切なものは何か、それを忘れない医療でありたい。どんなに病み、老いても、人間は誇りなしには生けていけない動物だからです。

[昭和59年] 

*上記 本の一部を抜粋編訳したものです。『ガラスの地球を救え