職業は武装解除
人生を自分の手で変えられる「自由に行動できる権利」その権利は、世界の誰もが持っているものではない。誰かのためにではなく、自分が生きる社会の行く末を自らが選びとっていく。
瀬谷ルミ子
著書:職業は武装解除
発行 2011年9月30日
私は34歳、職業は武装解除です。
こう自己紹介すると、日本だけでなく、世界のたいていの人たちは、私が過激派系の危ない人ではないかと一瞬疑いの目を向ける。
武装解除とは、紛争が終わったあと、兵士たちから武器を回収して、これからは一般市民として生活していけるように職業訓練などをほどこし、社会復帰させる仕事だ。
武装解除の対象になるのは、国の正式な軍隊のときもあれば、民間組織のときもある。そして、兵士といっても、六歳の子ども兵もいれば、六十歳を超えた年配の兵士、武装勢力に誘拐された武器を持たない女性まで、さまざまだ。
外国に縁もゆかりもない家族に囲まれ、群馬県の田舎に生まれた私だったが、二十四歳で国連ボランティアになってから、気がついたら、アフガニスタン、ソマリア、スーダン、シエラレオネ、ルワンダ、コートジボワールなど世界各地の紛争地帯が仕事場になっていた。
世界には、百名ほどの武装解除の専門家が存在する。そのほとんどが国連職員なのだが、私がほかの同僚たちと比べて少し変わっているのは、国連のほかに、日本の外務省、NGO団体などいくつもの組織を専門家として渡り歩いてきたこと、そして武装解除に関わる人々(国連職員や現地政府職員、兵士や警察官)を訓練する立場にあるということだろう。三十歳だった2007年に国連を辞め、武装解除の枠を超えた紛争ができないかと、現在は日本のNGOである日本紛争予防センター(JCCP : Japan Center for Conflict Prevention)の事務局長を務めている。
自由に行動する権利
私は、ずっと「私一人の声なんて、どこにも届かないだろう」だったら行動するだけ無駄だろう、そう思っていた。でも、高校三年生のときに、ルワンダの内戦の様子が撮影された写真をみて、なすすべもなく命を落としていく人々の様子と自分を比べ、自分には「自由に行動する権利」があるということに気がついた。
人生を自分の手で変えられる、その権利は、世界の誰もが持っているものではない。どうせだったら、できることから、少しずつでもやってみよう。その小さな決意の積み重ねを繰り返して歩いていたら、いつの間にか武装解除と紛争解決の仕事に行き着いていた。
行動しなければ、なにも変わらない。
どの紛争も、「あのとき他のシナリオを選んでいれば、あのときに誰かが行動を起こしていれば、声を上げていれば、違う結果になっていたかもしれない」と後から振り返ってみれば、はっきりと分かる分岐点がある。
今の自分の状況、日本の復興、世界の紛争地の現状。何かがおかしい、何か変える必要があると思うのであれば、まず、私たち一人ひとりが持つ「自由に行動できる権利」の使い方を考えてみてほしい。
最初の一歩を、勇気を出して踏み出すだけで、いろんなことが動き出し、見える世界が大きく変わり、出会う人々が大きな変化を与えてくれる。
私たちに残された選択肢
2010年7月20日、私が訓練したソマリア人女性が、ソマリアの首都モガディシオで民兵に撃たれて命を落とした。
彼女の名は、ファヒアという。首都モガディシオで治安改善プロジェクトのために選ばれた12人の現地NGOスタッフの一人だった。その日、彼女が乗ったバスが、民兵に襲われた。即死だった。
私がソマリア北部で彼女を含めたチームを研修した二ヵ月後の出来事だった。スタッフの精神面を心配して一旦活動を停止しようと伝えてた私に、他のソマリア人のメンバーは「彼女の分まで仕事をするから続けさせてほしい」と訴えた。
暫定政府軍と反政府軍の間で大規模な戦闘が行われている地域を避け、最も安全な地域で事業を進めていた。それでも首都であるモガディシオでは「略奪目当ての民兵に襲われることは、誰にも防ぎようがないんだ」「民兵に襲われることは、ソマリアでは交通事故みたいなものなんだ」と皆が言っていることが印象に残った。
平和な日本で生まれ育った自分が、世界のどこかで起こっている紛争や、そこに生きる人たちのことを考える必要があるのだろうか? と感じる人はきっと多いと思う。
だが、私は二つの意味で、紛争について意識することは日本人にとって重要なことだと思っている。
一つ目の理由は、近年の紛争の形が変わってきていて、テロのように、拠点を持たないネットワーク型の紛争が増えてきているからだ。今までのような「危険な地域に行くと危ない」という形から、「脅威が国境を超えて向こうからやってくる」形に変わってきたのだ。アメリカの 9・11のことを思い起こしてほしい。少数の人間が、国家や多数の人々に脅威を与えることが可能になった。そして、私たち日本人が頻繁に訪問するアジアの観光地でも、実際に被害に遭うくらいテロは身近になっているのだ。日本でもそういう事態に直面する可能性が日々、存在している。平和な街が。一瞬にして紛争地に変化する脅威がある世界になりつつある。
二つ目の理由は、日本のもつ中立性と大戦後の復興の経験が、世界各地の紛争地に大きな影響を与えているという事実があるからだ。
「日本は、昔の戦争で、アメリカやヨーロッパに総攻撃を受けて、原爆まで落とされて、ボロボロになったんだろう? なのに、今は世界有数の経済大国で、この国にも日本車が溢れているし、高級な家電はすべて日本製だ。どうしたら、そうやって復興できるのか、教えてくれないか?」
私が今までに行った多くの紛争地で言われたセリフだ。
アフガニスタンでは、日本人が言うからと、信頼して兵士たちは武器を差し出した。ソマリアでは、アフリカで植民地支配をしたことがなく、支援を行う際にも政治的な思惑をつきつけない日本は、中立的な印象を持たれている。そして、第二次世界大戦であそこまで破壊された日本が復興できた姿を見て、今はボロボロの自分の国も、日本のようになれるのではないかという希望を与える存在となっている。日本が背負ってきた歴史的経緯は、他の国がどれだけお金を積んでも手に入らない価値を持っているのだ。日本人の多くは、それを知らない。
最近聞いたあるセリフに「亡くなった人たちが、また生まれてきたいと思う国をつくる」という一言があった。ファヒアを思った。
「女性なのにと言われながら頑張って大学まで行った。でも自国の問題を解決するために何をしたらいいのかずっと分からなかった。今回、ルミコから訓練を受けて、初めて役に立てる方法があると知って、うれしかった」
このファヒアの言葉のように、ともすると誰にも届くことなく消えていく紛争地からの声を、無駄にしたくない。
まずは、紛争地で生きる人々の生きるための選択肢を増やしていきたい。ファヒアのように、命を落としてしまった人々が、また生まれてきたいと思えるような社会に紛争地を変えていくことを目指す。
そして紛争地から遠く離れた日本に向けて、わずかでも紛争に関心を持ってくれる人が増えるようにしたいと思っている。そして、日本人がどんな形でも良いので、自分ができる範囲で現地の人々の状況を変えるための行動をするきっかけを作っていきたい。
さらに間接的なのかもしれないが、日本に生まれてよかったと思える国をつくるために、私自身は国際貢献という道をとおして、日本の存在意義を高めていけたらと思っている。
2050年、日本は世界のGDPで第8位になることが予測されている。戦後六十五年の間に、経済大国としての地位を確立した日本は、その経済的な立場が弱まりつつあるこれからの時代に、新たな価値観と存在意義を確立すべき時期に差し掛かっていると思う。
この変わりゆく世界で、これからの五十年を歩むうえでの、在りたい姿を私たちは作っていかなければならない。まだ、日本に進むべき選択肢が複数残っていて、新たな選択肢を私たちが自らの手で作り出すことができるうちに。
おわりに
高校三年生のときに、ルワンダの写真を見て将来の道を決めてから十七年が経った。その後、世界の紛争地を実際に訪れるうちに、十七歳のときには疑問だらけだった世界の仕組みが、徐々に分かるようになった。
家族を置いて自分だけ自由に生きているのではないかという罪悪感は、私が仕事に取り組む覚悟を強めるたびに、少しずつ小さくなった。もしかしたら、罪悪感とは、自分の決意や行動が宙ぶらりんなときに、その隙間を埋めるために、より強く感じるものなのかもしれない。
現実は、ときに直視するのも耐えがたいくらい、厳しい。
でも、それでもわずかでも希望がある限り、「自由に行動することができる権利」を最大限使って生きていく道を、私はこれからも選んでいくと思う。誰かのためにではなく、自分が生きる社会の行く末を、自らが選びとっていくために。
最近の世界情勢や日本の情勢は、先が読めない不安感に溢れているように思えるかもしれない。でも、過去に世界が混沌としていない時期なんて果たしてあったのだろうかと思う。日本が成功していたときにも、世界のどこかにそのひずみは生じていたし、その逆も当然ありうる。だからこそ、世界のどこかが問題を抱えているときに、その解決のために連携し合うことは、回りまわって将来の自分たちの問題解決にもつながってくのだと思う。
今は、世界のどこにいても、個人同士がつながりあえる社会になりつつある。そして分野や国境、人種を超えたつながりを私たちがどのように活用するかで、私たち個人の持つ可能性が試されているのだと思う。世界は、そんなに捨てたものではない。