生きることの意味

IMASENZ

人間は限られた時間、限られた空間のうちに封じ込められ、一度壊れたら二度と旧に復することがなく、一度失ったら二度と出会えないものに囲まれている。「すべては消滅し、私は必ず死ぬ」という事実そのものが実は人間の幸福を基礎づけているのである。

今この場での人生を輝かすために必要なのは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。

引用:街場の現代思想 
著者:内田 樹

生きることの愉しさについて

ニーチェはかつて「人間は重要なことについては、つねに原因と結果を取り違える」と道破した。ある種の問いに答えがでないのは、しばしば、私たちが原因と結果を取り違えているせいである。だから天才は解答不能の難問に立ち向かうときに、とりあえず「話を逆にしてみる」という技法を駆使した。例えば、手塚治虫がそうだ。

手塚治虫が天才であることに異論のある人はいない。だが、彼が「どのように」天才であるかについてはさまざまな解釈があって必ずしも意見は一致しない。私は手塚の天才性はなによりもその「さかさまのストーリーテリング」にあると考えている。手塚は重大な問題については、ほとんどつねに「現象と図を入れ替えて考える」人だったからである。

鉄腕アトム』の全作を貫くテーマは「人間性とは何か?」という問いである。何が人間を人間たらしめているのか?人間性を真に基礎づけているのもは何か?手塚は第二次世界対戦の直後にこの問いを自らに向けて、実に真摯にその問いに取り組んだ。凡庸な作家であれば、非人間的状況を経巡りながら、しだいに人間的成長を遂げていく若者を主人公に据えた物語を構想しただろう。

しかし、手塚はそうしなかった。この困難な問いに答えるために、手塚はなんと「人間ならざるもの」を主人公に据えたのである。「死んだ少年の代理表象」であるところの「成長しないロボット」が、彼にとっての造物主=神である天馬博士に「無価値なもの」とレッテルを貼られて棄てられるといこれ以下はない的、絶望的状況に投じられたところから手塚は物語を始めた。

自分が自分であることの確かさ、自分が自分の意味を支えてくれる一切の条件を奪われたものは、その全的喪失から、いったい何を足がかりとして自分が存在することの意味と尊厳を奪還してゆくことができるのか?手塚はそう問いを立てたのである。

普通の人間に保証されているはずの基礎的なリソースをすべてそぎ落としたあとになお「残るもの」があり、それを拠点として人間がおのれの存在理由を構築できることがあるとすれば、それこそが人間性を担保する「最後のもの」に違いない。それは何か?

 『アトム大使』の結末で、地球を救うためにアトムはおのれの命を捧げる。だから、それが手塚の結論とみなしてよいと私は思う。人間性を基礎づけるのは、DNAでも知性でも感情でもない。人間を人間たらしめているのは、「世界のすべての人間よりも私は重い責任を負っている」という「有責感の(無根拠な)過剰」である。手塚はそう私たちに教えようとした。

どうしてアトムの話しを始めたかというと、手塚治虫は同じ技法で「生きることの意味は?」という困難な問いにも回答を試みているからである。

「生きることの意味は何か?」という問いに答えるのがむずかしいのは、答えが無数にあって収拾がつかないからである。しかし、「死ぬことを禁じられたら、どんなことが起きるか?」というSF的仮定から始まる想像にはおのずと限界がある。

どれほど奔放な想像力もコミュニケーション可能なすべての存在者が宇宙から消え去ったあとに、なおも永劫に生き続けることを宿命づけられたものの「絶対的孤独」という恐怖以上の恐怖を想像することはできないからである。

人間が想像しうる最悪の事態とは、すべてのものがうつろい消え去る中で、おのれひとりが「不死」にとどまることである。手塚治虫は『火の鳥』でその「死ねない恐怖」を執拗に描いた。

そうやって手塚が導き出した結論は、『鉄腕アトム』の場合と同じく、涼しく平明なものである。それは「人間は死ねるから幸福なのだ」ということである。

人間は限られた時間、限られた空間のうちに封じ込められ、一度壊れたら二度と旧に復することがなく、一度失ったら二度と出会えないものに囲まれている。人間をめぐる事象のすべては不可逆的に失われる。しかし、「すべては消滅し、私は必ず死ぬ」という事実そのものが実は人間の幸福を基礎づけているのである。手塚が私たちに教えようとそたのは、そのことである。

私たちが愛するものすべてのものは、壊れ、失われ、消え去ることを宿命づけられている。私たちが美貌や健康を重んじるのは、それがいずれ失われることが確実だからである。私たちがおのれの「生命」をいとおしむのは、それがこの瞬間も一秒一秒失われていることを私たちが熟知しているからである。

今の時代がしんどいのは「未来がない」からである。もっとはっきり言えば「死んだ後の自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。

「生きることの意味」が身にしみないのは「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。私がそんな方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは。自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。

困難な想像ではあると思うけれど、今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。

 

*上記 本の一部を抜粋編訳したものです。『街場の現代思想