司馬遼太郎への手紙

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「異胎の時代」の日本人が何を考え、どうふるまったのかについて、もし物語として書き残しておいてくださったら、あるいは日本の思想状況は今とは違ったものになっていたかもしれない。

引用:司馬遼太郎への手紙
内田樹

司馬遼太郎さま

はじめまして、内田樹です。ご著書はずいぶんたくさん拝読しましたが、ご生前には拝顔するご縁に恵まれませんでした。でも、こうして泉下の司馬さんあてに手紙を書く機会が与えられましたので、お会いする機会があったら申し上げたかったことをここに書いてみようと思います。

ご自身としてはあるいは不本意かも知れませんが、「司馬史観」という言葉があります。明治維新から日露戦争までの40年、敗戦までの40年、戦後の40年を三つに分割して、第二期、昭和一桁から敗戦までの十数年を「のけて」、前後をつなぐという歴史観です。

「その二〇年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続がある。また芭蕉荻生徂徠が生きた江戸中期をこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる」と司馬さんは書かれています(『この国のかたち』)。

司馬さんの本を読み出した頃は、「異胎の時代」を切除することによって日本歴史の連続性を回復するという司馬さんの戦略は戦後の日本人にとっては耳に心地よい物語として広く受け容れられるかも知れないと思っていました。

しかし、よく考えればわかることですが、この「異胎」「鬼胎」を生み出したのは他ならぬ日本人自身です。異胎を生み出すDNAは過去の日本人にあった以上、今もある。だから、きっかけさえあれば、また甦る。僕はそう思っています。

でも、司馬さんの書き物からは「異胎の時代」がいずれ再生して、統帥権参謀本部の「あの二〇年」と「日本史的な連続」を遂げるのではないかという恐怖は十分には感じることができませんでした。あの時代のことは静かに封印してしまおう。醜悪で血なまぐさい記憶も時間が経てばいずれ大地に帰るだろう。そういう歴史の浄化力に対する信頼が司馬さんの世代には共通していたようなに思えます。

私の父は司馬さんより一回りほど年長です。満州事変の年に満州に渡り、敗戦のときは北京にいました。戦後に東京で家庭を持ちましたが、大陸で何をしてきたのか、何を見聞したのか、ついに家族に語ることはありませんでした。

僕が小さい頃のことで鮮明に覚えているのは、家で友人と飲んでいる席で父が「でも、負けたよかったじゃないか」とつぶやいたときに座がしんとなったこと。満鉄の財産を旧社員に分配するという話をかつての同僚が知らせたときに「満鉄からは何も受けとりたくない」と断ったこと。72年に日中が国交回復したあと、日中友好協会の会員となって、たくさんの留学生の世話をしたのですが、その理由として「中国人には返し切れないほどの借りがあるから」と言ったこと。そういう断片的、迂回的なしかたでしか父は「あの二〇年」については語りませんでした。それは「戦中派の親を持った子どもたち」に共通の経験ではなかったかと思います。父たちは誰にも言えないし、言いたくないことを見聞きし、自分でも行った。それは誰かの共感を求められるような質のものではなかった。だから、彼らはその記憶を墓の中まで黙って持ち去り、自分と一緒に土に帰すつもりでいたのだと思います。でも、戦中派の父たちのこの集団的な沈黙のせいで、「異胎の時代」にほんとうは何があったのかについて、僕たちはついに当事者の口からは聴く機会を逸してしまいました。

そして、戦中派の人々が鬼籍に入ると同時に、「あの二〇年」は素晴らしい時代だった、日本人は誇るべき事業をアジア各地で成し遂げたのだというようなことを言い出す人が出て来ました。これは司馬さんの予想していなかった事態だと思います。

司馬さんはノモンハンやレイテ島やインパールについて、「異胎の時代」の日本人が何を考え、どうふるまったのかについて、もし物語として書き残しておいてくださったら、あるいは日本の思想状況は今とは違ったものになっていたかもしれない。そんな詮方ないことをふと考えてしまいます。 


引用:司馬遼太郎についての連載最終回
内田樹

司馬遼太郎国民国家

日本はいつから「こんな国」になってしまったのか。誰もがこの定型的な慨嘆句を口にする。リベラルも極右も、グローバリストもレイシストも、その政治的立場の違いにもかかわらず、「日本の劣化」という現実評価については同じ言葉づかいをする。

この吐き捨てるような現実嫌悪の言を制して、「少し前にもっとひどい時代もあったじゃないか。あれに比べたら今の方がまだずっとましだよ」と言ってくれる人は周りにもう見当たらない。司馬遼太郎がいなくなったというのは「そういうこと」なのだと思う。

司馬遼太郎は「国民作家」だった。

国民作家とは、国民国家を終の棲家と思い定めて、そこを動かぬ人のことである。

国民国家は石や滝のような自然物ではない。歴史の流れの中で形成された暫定的な制度である。歴史的条件が変われば変容し、時には消失する。司馬もそのことは骨身にしみて知っていたはずである。国民国家は脆い。だからこそ人々は日々の営みを通じてそれを支えなければならない。

坂の上の雲』は次のような一節から始まる。

「小さな。といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。

その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力の限りをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。」

わずか数行のうちにちりばめられた「小さな」「辛うじて」「精一杯」「幸運」「力の限り」といった徴候的な言葉を見落としてはならない。近代史をすみずみまで渉猟した司馬のもっとも率直な実感は、私たちの国がいまここにこうしてあるのは「ひやりとするほどの奇蹟」の賜だということであった。

司馬遼太郎が描いた国は小さな町内に似ている。それはたかだか暫定的な制度に過ぎない。集団のあるべき理想ではないし、他の「町内」に際立って卓越する必要もない。けれども、そこに生活しているものにとっては、そここそが命がけの現場である。天災に襲われ、建物が壊れ、田畑が流れ、死者が出れば、災禍が去った後、人々はとりあえず生き延びたことを言祝ぎ、失われたもののために涙し、暮らしの場を再建しようとするだろう。生活者というのはそういうものである。

司馬遼太郎国民国家を「生活者がそこを離れては生きてゆけない必死の場」としてとらえた。

左翼でも右翼でも、政治思想を語る人々にとって国家はもっと「ファンタスティック」なものである。それを一過的な政治的擬制とみなそうとも、天壌無窮のものとみなそうとも、彼らにとって「生活者の必死」などは副次的な問題に過ぎない。

司馬遼太郎はそうではなかった。日本という国は、五体と同じく、私たちに与えられた生得的環境、初期条件である。私たちはそれを選び直すことができない。それを受け容れ、それを害するものを避け、益するものを求め、欠点を正し、長所を伸ばすしかない。

司馬遼太郎にとって国とはそのように「可憐なもの」だった。儚く、脆く、傷は容易には癒えず、一度滅したらもう蘇生することはない。だからこそ、心を鎮めて、ていねいに扱わなければならない。国家を政治的幻想の道具として手荒に扱う人は、自分の身体を観念や欲望の道具とする人と変わらない。だが、思い通りに動かないからと言って、自分の手足を罵倒したり、斬り落とす人がいるだろうか。国も同じだ。司馬遼太郎はそのように考えていたと思う。

私は司馬のその国家観を支持する。それもまた一つの「物語」に過ぎないことを私は否定しない。それでも私はそれを支持する。