人権について

IMASENZE

すべての国の憲法で保障されている基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、そうした努力の記録が人権宣言(権利宣言)である。 

世界各国の人権宣言は、決して互いに無関係に作られたものではなく、それぞれ先人の努力の成果を基礎として新しい成果を加えて作られたものであり、いわばその全体が全人類の共同作品ともいうべきものである。 

人権の保障は、紙の上の規定だけでは、じゅうぶんでない。人権の保障を実効的ならしめるには、一人一人が「人権の感覚」ともいうべきものをおのおのの身につけることが欠くことのできない前提条件であり、そうした条件を実現するためには、一人でも多くの人が権力によって否定され、弾圧された各種の自由ないし権利を人類が獲得してきた記録として人権宣言を読み親しむことが必要である。 

引用:人権宣言集
高木八尺 末延三次 宮沢俊義

人権について研究しようとする者は、つねに広く各国の人権宣言を比較研究する必要がある。人間の自由と権利を保障するための法律は、イギリスのマグナ・カルを始祖とするが、現在では各国の成文憲法中に必ず人権宣言が含まれるようになった。「人権宣言集」では、歴史上ならびに現在の代表的人権宣言44種にそれぞれ専門家による解説付し、概説とあわせて人権宣言の系譜と現状を明らかにし、憲法学、政治学、その他の社会科学の研究者に対し信頼すべき正確な資料を提供することを目的とする。

人権とは

国民の各種の自由と権利を宣言し、憲法で保障する旨を定めた諸規定の一群が権利宣言権利章典である。1789年フランスの権利宣言である「人および市民の権利宣言」が略されて人権宣言と呼ばれるようになった。

古典的な人権宣言において「人の権利」または「人権」という言葉は、主として人間がただ人間であることに基づいて当然身につけている普遍的な権利である自由権を意味する。

人権という言葉が指す範囲は、今日もっと広い概念で用いられることもある。世界人権宣言にいう「人権(droits be I'homme,uman Rights)」では、各種の自由権とならんで、参政権および各種の社会権生存権、労働権、労働組合権、教育を受ける権利など)を同列に宣言している。

権利宣言について

権利宣言権利章典は、フランスの1789年「人および市民の権利宣言」が略されて人権宣言と呼ばれるようになって以来、ひろく人権宣言とも呼ばれている。しかし、古典的な権利宣言でも「人権」だけを宣言しようとしたものではなかったことからいって、学術上は、人権宣言よりも、権利宣言または権利章典と呼ぶのが適切である。

権利宣言は、権力によって否定され、弾圧された各種の自由ないし権利を、そうした権力に対抗して、主張することを目的とした「権利」であり、その宣言である。

権利宣言は、何より歴史的所産であり、その内容も歴史的にのみ理解されなくてはならない。何よりもまず従来行われた制限の否定である。例えば、従来検閲が存在したから、出版の自由が宣言されのであり、良心の強制が支配していたから、信仰の自由が宣言されたのである。

権利には、直接あるいは間接に義務を伴う。権利宣言で定められる義務としては、納税の義務や、兵役の義務、労働の義務などがある。しかし「義務」を負うことを定める場合でも同時に「権利」を有することを強調するのを忘れない。 

権利宣言のおいたち

権利宣言の原型は、1215年イギリスのマグナ・カルタ(Magna Carta)文書である。しかし、マグナ・カルタは、封建制度温存のための文書であり、近代的な意味での「自由」や「基本的人権」の保障を目的としたものではなかった。

権利宣言として整った形のものが現れたのは、1776年〜1789年の間に制定されたアメリカ諸州の憲法が作られたときである。そこでは権利宣言または権利章典と題する一群の規定が設けられている。(1776年6月バージニア憲法、1776年9月ペンシルベニア憲法、1776年11月メリランド憲法、1776年12月ノースカロライナ憲法...)これらが権利宣言の元祖と考えられる。

その後、世界諸国の権利宣言のモデルとなったのが、1789年8月フランスの「人および市民の権利宣言」である。

自由国家的権利宣言

人間は、国家以前の自然な状態において、他人にゆずり渡すことのできない固有の権利を持っている。それは人間が人間であることに基づいて当然身につけている権利である。国家は国民のそれを守ることを唯一の使命とし、国民の各種の権利を権利宣言において宣言する。

いわば権利宣言は、国家存立の目的を宣言するものであり、憲法のその他の部分は、その目的を達するための手段を定めるものである。また統治機構においては、国家の使命を正確に果たすために必要な立法・司法および行政の各部門の組織および権能を詳しく定めるのである。

社会契約論

トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)は、自然状態において全ての人間は自由で平等な自己保存の権利を持つとして自然権自由権の普遍性を唱えた。その上で自然権が持つ自己保存が時に他者の生命・身体を脅かす可能性を有し、その結果「万人の万人による闘争状態」を招くとして、自然法の存在と各人の自己保存を維持するための社会契約に基づく国家(政府)の必要性を唱えた。

ジョン・ロック(John Locke)は、何人も侵すことのできない固有の権利(right of properties)として、生命(life)・健康(health)・自由(liberty)・財産(所有-Possessions)の4つを掲げた。また国家は社会契約(統治契約)によって成立するもので、国家が国民の「人権」を侵害すれば国民は抵抗権(革命権)によって国家権力を倒す権利を有するとした。

ホッブズとロックの社会契約論は、各人が自然権を有し自分の自然権を行使することで発生する争いを回避するために社会契約(統治契約)に基づき国家に権利の一部を譲渡する点は同じである。異なる点として、ホッブズは、国家に権利を譲渡したからには為政に服従しなければならないと考えたのに対し、ロックは、国家に権利を預けた後も為政の内容に対して抵抗する権利(抵抗権/革命権)を有するとした点です。

ジョン・ロック自由主義的な政治思想は、名誉革命を理論的に正当化するものとなり、社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。

社会国家的権利宣言 

第一次世界大戦を機として、諸国の権利宣言に、新しい特色があらわれた。それは、多かれ少かれ社会国家理念のもとに各種の社会権が宣言・保障されるようになったことである。

この種の社会権の考えはすでに古く、1793年フランスの政治結社ジャコバン派マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)の草案に社会は、国民に職を与え、また働けない者には生活の手段を確保してやることにより、すべての国民の生存を保障する義務があること、貧者への生活保護は、富者の貧者に対する責務であること、生活に必要な程度を超えない収入しかもたない者は、納税の義務を免除されること、社会は、すべての国民に教育を保障しなくてはならないことなどを定めた規定があった。

1918年、世界初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦の「勤労し搾取されている人民の権利宣言」が注目され、1918年以後のヨーロッパ諸国に「社会的なもの」に対する注意を呼びおこした。

この時代に作られた憲法の権利宣言では、1789年に宣言された各種の自由権と並んで、家庭や母性の保護、両性の平等、社会保障、教育を受ける権利、労働権、労働者の団結権、健康な生活や休息への権利、私有財産の絶対性へ制約など各種の社会権を宣言・保障している。

権利宣言の国際法的保障 

国内民主制と国際民主制とは、互いに密接な関連を有し、前者は後者の条件であると同時に後者はまた前者の条件でもある。諸国の憲法ないし権利宣言による人権の保障は、論理必然的に人権の国際法的な保障をもたらすし、また、国内の権利宣言による人権の保障は、国際法的な保障によって裏付けられてはじめて、実効的なものになることができる。

ファシズムによる恥ずべき人権の無視をひとつの契機とした第二次世界大戦の翌日において、人間の尊厳を回復し、人権の保障をより実効的にするため、人権の国際法的な保障が、特に強く要望されるようになったことは、きわめて当然である。

1948年の世界人権宣言は、人権の国際法的保障への意図の明白な表現として、きわめて重要な文書である。またその内容も18世紀以来、今日まで世界中の権利宣言が進化発展を続けてきた成果の集大成とも考えられる点で、現代世界の権利宣言の典型と見ることができる。

大日本帝国憲法日本国憲法

戦後の日本が戦前の日本と違っている一番大きな点は、人権の保障であろう。

明治憲法の権利宣言で、宣言・保障された権利は、かならずしも国家以前のものではなく、天皇によって臣民に与えられたものとされたこと、権利は立法権を拘束するものではなく、法律でそれらを制限することが許されたこと、法律のほかに、緊急命令や独立命令でそれらを制限することも許されたこと、その保障を停止する制度として戒厳や非常大権がみとめられたこと、裁判所は法律の合憲性を審査する権をもっていなかったことなどの特色を有し、そのため不完全なものと考えられた。しかも、憲法の明文の規定にもかかわらず、神社が国教として扱われたため、信教の自由の規定はまったく空文と化していたし、拷問その他の人権の蹂躙行為が実際において大々的に行われたので、身体の自由の保障も極めて不完全なものとなっていた。宮沢俊義

太平洋戦争における降伏(1945年8月14日)によって、日本が拘束をうけることになったポツダム宣言は「日本国民における民主主義傾向の復活・強化に対するいっさいの障害を除去」すべきこと、および「言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立され」るべきことを日本に対して要請した。

かようにして成立した日本国憲法の権利宣言は、基本的人権を国家以前ないし憲法以前の権利として保障すること、伝統的な人権としての自由権のほかに参政権社会権をも基本的人権として保障すること、明治憲法時代の経験にかんがみ、信教の自由や身体の自由について、とくに詳しく規定し、その保障を実効的にしようとし、また学問の自由を明文で定めたこと、戒厳のような権利宣言の保障を停止する場合をいっさい認めないこと、基本的人権は法律によっても制限できないものとすること、権利宣言の保障が国会によって侵されるのを防ぐために、裁判所に対して法律の合憲法を審査する権を与えることなどによって先立つ明治憲法の権利宣言から区別される。宮沢俊義

まとめ

人権の保障は、紙の上の規定だけでは、じゅうぶんでない。人権の保障を実効的ならしめるには、一人一人が「人権の感覚」ともいうべきものをおのおのの身につけることが欠くことのできない前提条件であり、そうした条件を実現するためには、一人でも多くの人が権力によって否定され、弾圧された各種の自由ないし権利を人類が獲得してきた記録として人権宣言を読み親しむことが必要である。

また、憲法ないし権利宣言の規定が、文字どおり実際に行われているかを十分に検討する必要がある。権利宣言の規定にもかかわらず、実際には政治上の言論の自由が存しないようなことはないか。学問の自由が本当に守られているか。選挙は自由かどうか。裁判は公正に行われているか。裁判の独立は確保されているか。これらの問題について、できるだけ厳密に検討することがのぞまれる。

*『人権宣言集』から意訳抜粋をしています。