世界一貧しい大統領

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貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。

2012年7月に開かれたリオ会議(Rio+20)環境の未来を決める会議での南米ウルグアイの当時の大統領ムヒカ氏の代表スピーチです。

ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノ氏は、2010年3月1日から2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務め、就任時から報酬の大部分を財団に寄付し、個人資産は約18万円相当の1987年型フォルクスワーゲン・ビートルのみ月1000ドル強で郊外の住宅で質素な生活をする「世界で最も質素な暮らしをする大統領」と知られている。

(日本語訳)

この場所にいらっしゃる全ての政府、そしてその代表の方々に感謝申し上げます。また、リオ会議に招いていただいたブラジルのジルマ・ルセフ大統領にも感謝申し上げます。

これまで素晴らしいお話をされてきたプレゼンテーターの方々にも感謝申し上げます。国を代表する者として、人類にとって必要となる国家同士の話し合いをおこなう素直な志がこの場所で表現されていることと考えています。

しかし、私が抱いている厳しい疑問を述べさせて下さい。

今日の午後から、これまで議題となっていたことは持続可能な発展と世界の貧困を撲滅することでした。我々が真に抱いている問題とは、一体何なのでしょうか?現在の豊かな国々が辿ってきた発展と、その消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか?

呼吸をしていくための十分な酸素は残るでしょうか?。同じことを別の質問で言うならば、西洋の富かな社会がおこなっている“傲慢な”消費を世界の70から80億人もの人々がおこなうための資源は、この地球に存在するのでしょうか?それは本当に可能でしょうか?

あるいは、異なる議論が求められるのでしょうか?

なぜ我々は、このような社会をつくってしまったのでしょうか?

市場経済の子どもたち、資本主義の子どもたち、すなわち私たちが間違いなくこの無限ともいえる消費と発展を求める社会をつくり出してきたのです。市場経済が市場社会を生み出し、このグローバリゼーションが世界の果てまで資源を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが、私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

これほどまでに残酷な競争によって成り立っている消費社会の中で、「みんなで世界を良くしていこう」という共存共栄な考え方はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを述べるのは、リオ会議の重要性を批判するためではありません。むしろ、その反対です。我々の前に立っている巨大な危機は環境問題ではないのです。それは、政治的な危機なのです。

現代においては、人類がつくりだしたこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、この消費社会によって人類はコントロールされているのです。私たちは発展するべく生まれてきたわけではありません。幸せになるため、この地球にやってきたのです。人生は短く、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

常軌を逸した消費は世界を破壊しており、高価な商品やライフスタイルが人々の仁政を破滅させているのです。社会は消費という歯車によって回っており、我々はひたすらに早く、そして大量の消費を求められています。もしも消費がストップするならば経済が麻痺して、そうすれば不況の魔物が我々の前に現れるのです。

常軌を逸した消費を続けるには、商品の寿命を縮めて出来るかぎり多く売る必要があります。つまり、10万時間持つ電球をつくれるのに、1000時間しか持たない電球しか販売できない社会にいるのです。それほど長く持つ電球は、市場社会に良くないのでつくることはできないのです。人々がより働くため、そしてより販売するために「使い捨ての社会」を続ける必要があるのです。

悪循環にお気づきでしょうか?

これはまぎれも無く政治問題ですし、我々はこの問題を異なる解決方法によって世界を導く必要があるのです。石器時代に戻れとは言っていません。市場を再びコントロールする必要があると言っているのです。私の考えでは、これは政治問題なのです

昔の賢明な方々、エピクロスセネカアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏な人とは、少ししかモノを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

この言葉は、私たちの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。

そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということです。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自らにこんな質問を投げかけます。

それが人類の運命なのか?

私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。